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大菩薩嶺・唐松尾根〜大菩薩峠ルート解説
上日川峠「ロッジ長兵衛」近辺には市営の無料駐車場が4ヶ所あり、ロッジ長兵衛横に登山口の指導標が
ある。福ちゃん荘までは登山道に並行して林道(許可車・タクシー専用)もあるので好みの道を選べばよい。
福ちゃん荘からは大菩薩峠を目指す山腹道コースと、大菩薩嶺を目指す唐松尾根コースに分かれる。
唐松尾根コースは名前の如く唐松林の中、笹が刈り払われて歩きやすい登山道が山頂まで続く。
樹木がまばらになると共に傾斜がきつくなるが、保護柵に囲まれた笹原が近づけば展望地の雷岩が近い。
雷岩から大菩薩嶺は10分程の場所にあるが、三等三角点が埋設された日本百名山の山頂は樹木に囲ま
れているので展望は望めない。
雷岩〜神部岩〜賽の河原〜親不知の頭〜大菩薩峠の稜線は、花の百名山に紹介されている場所でもあ
るが、天気の良い日は富士山から始まって南アルプスの全峰々を一望しながら歩くことができる。 mikio
コメント
前回(2005年)の山行では見ることの出来なかった富士山でしたが、今回はご覧のような素晴らしい展望を
得られたうえ、秀麗富嶽十二景のひとつ「小金沢山」までクリアすることができました。 ヽ(´▽`)/
2055.5.14 のコメント
中里介山の小説「大菩薩峠」で有名な大菩薩嶺と大菩薩峠に登ってきました。
山好きの方は日本100名山の「大菩薩嶺」かと思いますが、一般的には小説の「大菩薩峠」を思い出される
方が多いのではないでしょうか。(映画をご覧になった方も多いかもしれませんね)
私の場合も後者ですが、小説名を知っているだけで読んだことはなかったのでホームページ検索で作者と
小説の事を調べましたので参考にして下さい。
中里 介山 作家名読み: なかざと かいざん 生年: 1885-04-04 没年: 1944-04-28
人物について: 小説家。本名は弥之助(やのすけ)。東京都羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい
少年時代を送る。 小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員となる。
この間、キリスト教と社会主義の影響を受ける。1905(明治38)年、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)らと雑誌
『火鞭』(かべん)を創刊。同誌に短編『笛吹川』を発表。翌年『都新聞』入社。1909(明治42)年、同紙への
連載小説『氷の花』をかわきりに『高野の義人』など数々の作品を掲載。
1913(大正2)年『大菩薩峠』の連載を『都新聞』で開始。本作はこの後、掲載紙を変えながら断続的に1941
(昭和16)年まで書き継がれる。 しかし長大な作品(四十一巻)は作者の後半生を呑み込み、なお未完に
終わる。
1919(大正8)年『都新聞』退社。旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか『隣人之友』をはじ
め各種雑誌の発行を手がける。 生涯を通じトルストイの影響を強く受けたといわれる。
代表作には、聖徳太子に材をとった『夢殿』、法然上人を描いた『黒谷夜話』など。
また晩年は自伝的文集『百姓弥之助の話』を残している。
小説「大菩薩峠」01 甲源一刀流の巻
御岳山(みたけさん)での奉納試合を数日後にひかえた机竜之助(つくえりゅうのすけ)は、大菩薩峠いただ
きで無辜の老巡礼を斬り殺す。 奉納試合は宇津木文之丞(うつきぶんのじょう)の妻お浜をめぐる双方の
わだかまりから、次第に殺気をおびたものとなり、竜之助は得意とする音無しの構えから立合いのすえ、
一打のもと文之丞をうち殺す結果におわる。
お浜をつれ江戸に逃れた竜之助は、新徴組(新撰組の前身)芹沢鴨(せりざわかも)の世話になる一方、
土方歳三(ひじかたとしぞう)らとともに新徴組幹部清川八郎の暗殺に加わるが、手はずのあやまりから、
島田虎之助の襲撃を目撃することになる。
早朝、小雪ふる鶯谷(うぐいすだに)新坂下の原。直心陰(じきしんかげ)流の剣豪、虎之助のあざやかな
立ちまわりと圧倒的なわざの前に次々と斬り斃される刺客たち。
このできごとに衝撃を受けた竜之助は「我ついにこの人に及ばず」と知り、愕然とするのであった。
『インターネットの電子図書館・青空文庫』より抜粋して掲載しました。
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